last modified: 2005/09/09
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新人賞受賞作家エッセイ
「二足の草鞋作家の休日」
平谷美樹
毛鉤竿を持って降りた谷間の狭い空は、橙色に燃えていた。 左右に迫った森は、濃い錆色のシルエットになっている。 間断なく続く水音を縫って、ヒグラシの輪唱が聞こえる。
ぼくの正面には堰堤があった。 細い山の中の川にふさわしい、小さく苔むした堰堤である。 膝まで水に浸かりながら、ぼくは滝壺状に掘り込まれた堰堤下の溜まりに近づく。 風に乗ってヤマユリの香りが漂ってきた。
ほぼ垂直な堤体の直下は流れ落ちた水が白い泡の帯を描き、そこから三メートルほど、水は溜まりの中をゆったりと流れる。
ぼくは溜まりにライズを探した。 ライズとは、魚が水面を流れる餌を補食するときにできる水しぶきや波紋である。
溜まりの中に小さな水しぶきが上がった。
ぼくは竿を振って毛鉤を飛ばした。
毛鉤は流れに乗って、さっきライズがあった場所に近づく。
暗い水の中から白っぽい魚体が浮かんでくるのが見えた。
心臓が高鳴った。
大きな岩魚が顔を出して毛鉤をひと呑みにして反転した。
グンッとグリップを持つ手に衝撃が走った瞬間、我に返った。
遮光カーテンを閉めた暗い部屋に、スタンドが白々とした光を投げかけている。
エアコンの音とパソコンの冷却ファンの音。 漂う煙草臭い空気。
目の前にはディスプレイが垂直に立ち、量子力学やフラクタルやカオスが物語の中で煮詰まった泡をたてていた。
リアルな妄想に悩まされる昼下がり――。
二足の草鞋作家の休日は、こんなものだ。
ぼくは冷めたコーヒーを啜ると、煙草に火を点けた。
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